17、長屋の女房
「そこはまだ空いているか?」
「はい、そのままです。長屋の一番端ですから暗くて物騒なんです。早く誰か越して来てくれると良いのですが」
「先生が街中に長屋を探していらっしゃる。どうだろうか?お世話をして上げたら・・・」
お雪は飛び上がらぬばかりに驚いた。驚いて言葉にならない。思いが交錯した。
「どうした?もう塞がったか?」
「いいえ、明日にでも大家さんに聞いてみます」
顔いっぱいに嬉しそうに答えた。
「うん、そうしてくれ。先生、聞いての通りです」
「それはありがたい。是非お願いしたい」
「あの長屋ならどこに行くにも近くて便利ですよ」
お雪はもう決まったような気持ちになり、なぜかわくわくした。こんな気持ちは生まれて初めてである。
翌朝早くお雪は大家を訪ねた。
「それは残念だ。来月から大工の夫婦が住むことに決まっている」
お雪は身体から血の気が引くような落胆を味わった。
「そうですか。わかりました失礼します」
大家にもその落胆した様子はわかる。
「お雪さん、部屋はすぐにお住まいになられるのかな?」
「いえ、すぐでなくて良いのです」
「それなら、丁度良いかもしれない」
「どういう事でしょう?」
「来月、すぐ向かいの長屋に空きが出る。今住まいの大工が来月から二階長屋(1階と2階に各ひと間)に引っ越す」
「何か不都合でも?」
「いや、おめでたでね。来月子供が3人になる。ひと間では狭すぎるわけだ」
「向かい側の長屋ですよね。是非お願いします」
「しかし、向かいの長屋は割長屋で6畳だよ。家賃が少し高くなるが大丈夫かな?」
(割長屋は部屋奥が障子で開けると障子。棟割長屋は文字通り長屋を横に割り、部屋奥が壁で別の住民が住む)
「おいくらなんですか?」
「6百文(1万5千円)だ」1両=4000文=10万円
「大丈夫です。よろしくお願いします」
「そうか、それはこちらもありがたい。では、住まわれる人をお連れなさい」
お雪は勝手に決めてしまった。向かい側に先生がお住まいになる。嬉しくて心が躍るようだった。
店に出て父竹蔵に話すと、
「先生がお出でになったら、お前からお話しなさい」
竹蔵も喜んで、嬉しそうに蕎麦をゆで続けた。昼間も蕎麦屋は活況だ。客は竹蔵の蕎麦を求めて入って来る。
梅雨も明けて暑い日差しになる前の朝5つ(8時)、辺見は4か月程住んだ長屋を後にした。
亭主を送り出し、一段落した女房達5人が見送ってくれた。左隣の女房が、
「ごめんなさい。あたし達のせいね。うるさくしてごめんなさい」
「そうだよ、寝不足になっちゃうよ。あたしは慣れちゃったけどさ。激しいからね」
その隣の女房の声に、
「出来るだけ声を出さないようにしてたんだけどね。聞こえちゃんたんだね。本当にごめんなさい」
「いや、そうじゃない。仕事の都合だ。街中でないと都合が悪い。それに刺激になった。活力がみなぎったよ」
「あら、本当ですか?でも恥ずかしい!」
右隣の女房が急にしなを作る。
「馬鹿!お気遣いだよ。死ぬか生きるか知らないが、うちの旦那は、いつも勝手にしろと言い返して、ふて寝さ」
「そりゃ違うよ。あんたが相手をしないからだよ」
「毎晩かい?無理と言うもんだよ。あんた良く飽きないね」
「違うんだよ。お互いにすることが無いからね。旦那にいつの間にか入れられちゃうんだよ。勝手にね」
「おんや!のろけちゃってるよ。入れられちゃったんだってさ」
辺見のことは忘れたかのように、いつもの言い合いが始まった。もう止まらない。辺見はあきれ顔で、
「皆さん、世話になった。ありがとう。達者でな」
荷車を引きながら額から流れる汗を拭きもせず、急ぐかのように引き進んだ。
新居の長屋はお雪が掃除を済ませてある。なぜか胸がわくわくする。今日からはお雪の近くに住む。
荷車を部屋の前に止めると、待っていたかのように引き戸が開いた。
「お手伝い致します。勝手に部屋に入ってごめんなさい」
お雪が頬かむりを取りながら、前掛けをして出て来た。にっこり笑ったその顔は綺麗だった。辺見はどきりとした。
お雪には昼の蕎麦屋がある。まさか、手伝いに来てくれているとは夢にも思わなかった。
部屋は綺麗に掃除がしてあり、障子が張り替えてあった。最初に案内された時の部屋と見違えるようだった。
つづく次回は7月14日火曜日朝10時に掲載します