護り屋異聞記 18.
「頼もう!拙者、井坂と申す者。頼もう」
「入られい」
中から聞き覚えた声が聞こえて来た。井坂は引き戸を開けた。
「おお、やっぱり井坂殿か。良く訪ねてくれた。さ、上がってくれ」
「やっぱり谷崎殿だ。お人が悪い。先日お話下されば良かったのに」
「すまない、ところで何か用があったかな?」
「先日はありがとうございました。さらに、家賃をお支払いいただきまして重ね重ねありがとうございます」
「お、お、少しだけだ。気に致すな。まとまった金が入ってな。一人暮らしはには余分でな。さ、一杯いこう」
3合徳利から湯呑になみなみと注いで井坂に渡す。こぼれそうで思わず受け取った。
「ほれ、ぐっと飲んで!」
井坂は一口口を付けて湯呑を下に置いた。懐から懐中袋を取り出し、中から4両の小判を出す。
「お借りした3両と家賃です。ありがとうございました」
「馬鹿なことを言うでない。3両はお詫びに出したものだ。貸したとは言葉のあやだ。返す必要はない。あげたものだ」
「とんでもありません。理由なくこんな大金を戴くわけにはいきません」
「おぬしの仕事の邪魔をした。その償いだ。拙者の言い方が悪かった。あの時はそうとしか言えなかった。許してくれ」
「ご配慮に心から感謝致しております。谷崎殿のお話を伺ってこの世に何が大事かと言うことを悟りました」
谷崎はほうと言う顔をして湯呑を下に置いた。
「命です・・・。女々しいですが妻の命です。妻のいない世の中に身共は生きていても意味が無いと気付きました」
「それなのに、武士の魂だ仕官のためだと刀を後生大事にしておりました。妻が生活の為に全てを売り払った後も」
谷崎は目を瞑った。谷崎にも思い当ることがあった。妻を労咳で亡くして2年になる。その後貧乏長屋に引っ越して来た。
「この金子は脇差を売ったお金です。両刀を売るつもりでしたが意外に高く売れました。必要に応じて又売るつもりです。この脇差は間に合わせに買い求めました」
「偉い!拙者にはそれが出来なかった。身共の情けなさが今もって辛い。申し訳ないがこの金子は納めてくれ。妻の供養にもなる」
「そのお心痛み入ります。しかし、身共は身共の力で何とかしたいと思っております。どうぞ、お返し致します」
「いいか、その心が若いと言うのだ。おのれの自己満足にはなるが、人の心を踏みにじっている。わからぬか?」
「・・・・・」
井坂は谷崎の言うことがわからない。無言になった。
「井坂殿、妻女の具合はどうじゃ?」
「はい、おかげさまで高麗人参を買うことが出来ました。今日から煎じて飲んでおります」
「それは良かった。医者が買えないとわかっている人参を勧めた時は責任逃れだ。しかしそれは仕方のないことだ」
「治らないと言うことですか?」
「察しが良いようだ。だが違う。快方に向かうのは間違いない。問題は買えるか買えないかだ。それは医者の責任では無い」
「そう言うことですか」
「問題はここからだ。高麗人参を飲めば体力が付き快方に向かう。だが完治しない。この大気に問題があるからだ」
「完治しないとはどう言うことですか?それに大気に問題があるとは意味が分かりません」
「そうだ、この大気が問題だ。だから江戸の病と言う。高麗人参を飲んで小康を得たら、大気の良い温泉療養に出掛けることだ」
「温泉ですか?一度も行ったことがありません」
「湯河原に行くと良いぞ。大気は良いし、ここからは2日もあれが行ける。妻女を連れて行くことだ」
「それでは江戸に出て来た意味がなくなります」
「何のために?妻女にもしものことがあればどうする」
「・・・・・」
「仕官出来たとして、それは誰のためだ?おのれの為であろう。妻の為とか綺麗事を言っても駄目だ」
「・・・・・」
「悪い見本が拙者だ。悔いる毎日だ。だから、少しでも人の為になりたい。貴殿には少し口が過ぎたようだ。すまない」
言い終わると4両の金子を井坂の前に戻した。
「これは、その足しにしてくれ。身共の妻に出来なかったことを井坂殿にして貰いたい」
井坂は俯いたまま顔を上げられなかった。
それからひと月後、井坂の妻女はだいぶ快方した。妻と相談の元、湯河原に療養に行くことを決心した。
夫婦して谷崎の所へに挨拶に行くと、大喜びして餞別をくれた。三両の大金が入っていた。
どうしても断り切れなかった。それから半年が過ぎた。頃は真冬である。井坂から手紙が来た。
妻が元気になりました。今、湯河原で漁師をして暮らしています。このまま湯河原に住むつもりですとあった。
それは長い手紙であった。谷崎へのお礼と感謝に満ちていた。江戸の冷たい風の吹く中、谷崎の心はほのぼのと温かかった。
つづく
次回は2月23日火曜日朝10時に掲載します