護り屋異聞記 17.
井坂は夜明けとともに起き出した。気持ちが昂ぶり眠れなかった。妻の美代も起きた。
「直ぐに火を熾します。遅くなってすみません」
美代は日中、じっと座って縫物をしていた。井坂が横になるようにと、どんなに勧めてもならなかった。
美代は労咳を自覚していたが気丈な女だった。時々血を吐く状況にありながら、いつも明るい顔をしていた。
井坂はわかっているだけに、胸が締め付けられるようであった。どうにもして上げられない我が身を嘆いた。
2年前、突然廃藩になり江戸に美代を連れて出て来た。江戸は浪人だらけだった。仕官の口は皆無に等しかった。
帯刀だけが心のよりどころだった。売るなどとは考えてもみなかった。妻の櫛やかんざしはとっくに売った。
持参した金は底をついた。美代は着替えの着物まで売った。それでも刀を売る等とは夢にも思うことは無かった。
口入れ屋に毎日通うが仕事は無かった。あるのは、ここが木場だけに材木の運びの人夫の仕事が時々あった。
井坂はいつになく明るい顔をしていた。美代はそれを見て嬉しくなった。味噌汁と漬物だけの朝飯が終わると、
「出かけてくる。昼前には帰って来る」
にっこり笑いながら言った。美代は急に不安になった。夫がいつもと違う。思えば昨夜帰って来てから何か違う。
井坂は、街中の古道具屋に入って行った。ずるそうな顔をした親爺だった。品定めをするようにじろりと見て、
「新刀はいくらにもなりませんよ」
気のない言い方だ。渋い顔をして暗に帰れとでも言うような言い方だった。
この刀は父の形見だ。藩の師範代を長年務めていた。むっとしたが脇差を出した。
(武士は2本差しと言って太刀と脇差を腰に差す)
親爺はしょうがないと言う顔をしてさっと抜いた。白刃をじっと眺めていた。そのまま顔を動かさないで、
「いくらでお売りなさる?」
井坂は値段の見当がつかない黙っていると、
「5両なら買いましょう」
井坂は高いか安いかわからない。迷った顔をしていると、
「10両ならどうです?これ以上は出せません」
いきなり倍にして来た。10両とは凄い。流石に父の形見だと思い、感慨に満ち改めて親爺の手にする刀を見た。
「後2両出しましょう。それならどうです」
思いがけない値上げに、
「よかろう」
と言うと親爺は渋い顔のまま、太刀もお売りなさいませんかと言う。即座に断ると、
「いつでもお出でなさい」
また渋い顔のまま言い、12両の金子を出して来た。
「親爺、安い脇差はないか?」
「ございますとも」
店の奥から脇差を出して来た。
「新刀ですが見栄えは良いですよ」
「いくらだ」
「2両もいただきましょうか?」
井坂はその足で、医者に寄り高麗人参を買った。そして甘辛の串団子と卵を5個買って帰って行った。
「お帰りなさいませ」
美代がほっとしたような顔で出迎えた。
「お土産だ。お前の好きな甘辛団子だ。それに卵」
上がりもせず入口に立ち。にこにこ笑って畳の上に置く。すぐさま懐に手を入れ大事そうに出したものがある。
「ほら、高麗人参だ!早速煎じて飲むが良い」
「ええっ!そんな高価なものどうなさったのですか?」
「昨夜の仕事で大金が入ったのでな。すぐ煎じなさい。私はこれから家賃を払って来る」
大家が渋い顔をして出て来た。井坂には今月で長屋を出て貰いたかった。後半月追い出せるところだった。
「井坂様、家賃の2か月分を先生から頂きました。2か月過ぎてお支払いが無ければ、長屋を出ていただきます」
「何?支払われた。どう言うことだ?先生とは誰だ?」
「ご存じなかったですか?そうか、井坂様が引っ越して来られたのが8カ月程前ですからね」
「それが何の関係がある」
「その少し前も、長屋全員の家賃を2カ月分お支払い下さったのです。その後、旅に出られて5日前に帰って来られました。そしてまた、全員の2か月分をお支払い下さいました。だから、井坂様の2か月分は頂ました」
「払って貰ういわれはない。返してくる。部屋はどこだ?」
「2棟目の右側3番目です。でも先生はお留守ですよ。お忙しいようで殆どお留守ですよ」
「そうか、名前だけでも聞いておこう」
「谷崎様とおっしゃいましてご浪人様です」
谷崎とはどこかで聞いたような名前だ。思い出せない。とにかく寄ってみよう。井坂は教えられた部屋を訪れた。
訪なうが返事が無い。やはり留守かと帰ろうとすると、隣の女房が出て来て、
「先生はお留守ですよ。夕7つ半(17時)頃にお帰りです。何か伝言でもあればお伝えしますよ」
「いや、その頃に来てみる」
井坂はそこを引き返した。隣の棟に出た。その長屋の左奥が自宅である。只今と引き戸を開けた。
「お帰りなさいませ」
なぜか浮かない沈んだ顔をして美代が言う。そして、じっと脇差を見ている。
「どうした。飲んでみたか?」
「あなた、脇差をどうなさいました?」
「そうか、わかったか。流石、美代だな」
明るい顔をして言う。
美代はさっき帰って来た時、主人の姿になぜか違和感を覚えた。はっと思ったときは外へ出て行った。
美代の目がぱっと潤んで来た。たちまちぼろぼろと頬を伝って落ちて来た。その場に両手を付いて、
「お父上に申し訳ありません。わたくしのために・・・」
「ははは、違うぞ。昨夜ある御仁に馳走になってな。酌をしようとしてうっかり醤油壺をひっくり返した。運悪く、脇差にかかってしまった」
「・・・・・」
美代は顔を上げて黙って聞いている。
「鞘の中まで醤油が沁みてしまった。柄紐の巻き直しだけでは済まない。安く上げたいので、古道具屋で合うものを捜したと言うわけだ。朝早く出かけたのはそれが理由だ。案ずるな、中身は父の形見のままだ。ほら、見てみろ」
井坂は脇差を抜いて見せた。美代は中身を見たことが無い。そこまでされると納得するしかなかった。
「お茶を入れてくれ、美代の好きな甘辛団子を食べよう」
「はい!」
美代は心が完全に晴れたわけではないが、嬉しそうに返事して立ち上がった。
「そうだ、高麗人参は煎じて飲んだか?」
「いえ、まだです。お帰りになってからと思いまして」
「そうか、お茶でも飲みながらゆっくり煎じると良い」
差し向かいで、団子を食べながら飲むお茶のうまいこと。
「昨夜は良い金になった。黙っていたが用心棒の仕事でな。3両貰った。これは人参と脇差に家賃の残り1両だ」
井坂は懐から小判を出して、美代の前に出した。
「これからも、仕事を貰うつもりだ。安心して使ってくれ」
「ご仕官に差し支えるのではありませんか?」
「仕官は辞めた。今さら人に使えるのは嫌だ。生活は苦しいが自由に生きたい。苦労させるがついて来てくれ」
「はい、わたくしはどこまでもついて行きます」
「そうか、小金が貯まったらお前と一緒に温泉地へ移り住もうと思う。労咳の治療にもなる」
井坂は、仕官が叶うと美代を空気の良い温泉地へ連れて行くことが出来ないと考えた。仕官より美代が大事だ。
「銭湯へ行って来る」
昨夜のこともあり、4日も入っていなかった。帰ると7つ半を過ぎていた。
「お前に話さなかったが、家賃を立て替えてくれた御仁がいる。隣の長屋に行って来る」
つづく
続きは2月16日朝10時に掲載します