43.御前試合
郡川藩江戸屋敷は、これから大試合が行われるというので慌ただしかった。明け六つ(午前六時)から人々は、動き回っていた。
倉橋伝九郎は、郡川藩江戸屋敷控えの間にて、琢磨の一報を待っていた。遅くとも朝五つ半(午前9時)までには朗報が聞けると思っていた。
戦って負ける相手ではないが、琢磨の恨みを晴らしたい。それは一石二鳥と考えていた。恨みとは笑止であるが、試合に欠場となればその恥辱は計り知れない。
何があろうとも遅れも厳禁である。しかし、慎之介の屋敷入りはまだ無いようだ。
その時、襖の向こうで、
「只今、早水慎之介殿ご到着になりました」
と知らせて行った。
まさかの不首尾であったとは、伝九郎は耳を疑った。
琢磨はどうしたのであろう。万全の策であったはずである。狭い道で、五人が同時にかかれば慎之介に勝ち目は無い。まして、選りすぐりの浪人者である。
万一の場合、深手を負わせ無くても良い。刃傷の後の御前試合は厳禁となるから、浅手でも良い。又、戦いが長引いて、時間に遅れても同じことである。
道は一本である。慎之介は用心して遥かな遠回りをしたとしか考えられない。それを思うと、琢磨の心配よりも、小心者めがとほくそ笑んだ。
試合は藩主本多宗近を中央に、左右に家老今田光義ら重臣が居並び、張りめぐされた幕内には、藩士が左右に四十名程床几に着座している。
双方とも正眼に構えた。対峙距離三間にある。
暫くにらみ合った後、両者はじりじりと間合いを縮めて行った。一間程に縮めたところで互いに静止した。
その瞬間、気が満ちたのか伝九郎は、木太刀を擦りあげながら前に飛んだ。
慎之介、躱しもせずそのままでいた。誰しも遅れを取ったと思った。
流石に伝九郎の木太刀は早い。しかし、その木太刀は一瞬のうちに宙を舞っていた。人目には、伝九郎の木太刀は慎之介の前で自然に撥ね飛んだと見えた。慎之介は少しも動かず、慎之介の木太刀が動いたのも見えなかった。
のめり込むように着地した伝九郎の頭上には、慎之介の木太刀が静止していた。
試合会場の総員が、時間が止まったごとく無言でいた。
坂江藩の指南をしながらの鍛錬が、天賦の力をさらに高めた。
慎之介の太刀捌きは通常人の目には留まらない。ここで、ようやく総員立ち上がった。声こそ上げないが、呻きに似た声と拍手が沸いた。鳴りやまない。
伝九郎も流石であった。木太刀を拾うと、三方に会釈して下がって行った。
慎之介は正座して、藩主宗近に万感を込めて会釈する。この試合の遠望深慮は宗近の描いたものであったからである。
宗近は、慎之介に直々に声をかけた。
「近こう寄れ」
慎之介はいざり寄った。
「これを取らす」
宗近は腰から脇差を抜き渡す。慎之介は、必死に耐えた。脇差を押戴いたまま、両肩を大きく震わせていた。その時、父久忠の声を聞いた。
「慎之介」
ただ一言であった。温かい声であった。
つづく
44.慎之介の決意
控えの間に、家老今田光義と江戸留守居役中沢左門が入って来た。
席を下座に改め、平伏する慎之介に、
「顔を上げい!あっぱれであった。殿がことのほかお喜びなされ、直ぐにでも指南役を引き受けて欲しいと言われる」
家老今田は、自分のことのように喜んでくれた。
父久忠の生前、囲碁仲間で互いの家を行き来していた。慎之介も家老今田は、幼い頃から見知っていた。
「久忠殿も喜んでいるだろう。ところで、いつから帰藩していただけるかな?」
家老も知っていたのだ。慎之介は返答に窮した。指南役を引き受ける考えはなかったと言ったら、嘘になる。慎之介の一瞬の間をとらえて、
「これまでの、生活のけじめも必要だろう。出来るだけ早く治めて来てくれ」
家老は、にこやかに笑いながら、さらに続ける。
「帰藩の住まいは明日にでも、用意致して置く。しかし、妻子があるから、帰路に二十日はかかるだろう。二人をいたわり、身体を十分に気を付けて帰って来なさい」
家老今田の温かい言葉だった。全てを承知しているようだ。
「日取りが決まったら、中沢に伝えてくれ」
慎之介の返答は聞かずに、中沢と部屋を出て行った。
慎之介の答えは決まった。
本所の自宅への道は遠かった。人目が無ければ、走り出したい気持ちだった。
遠くに見える自宅前に、小太郎が立っているのが見える。待っていたのだ。慎之介に気付くと、
「母上!父上のお帰りです」
と大声をかけて、走って来る。
「父上お帰りなさい!」
小太郎は両肩に飛びついて来た。慎之介は、咄嗟に刀を横にずらして、抱き上げた。見ると小太郎は泣いている。小さく声をしゃくりながら泣いている。
小太郎には一言も話していなかったが、子供ながらに何か感ずることがあったのだろうか。慎之介は片手で頭を何度も優しく撫でた。可愛くて堪らない。
家に入ると、綾乃が三つ指ついて、
「お帰りなさいませ。ご成就おめでとうございます」
顔を上げない。上げられないのだ。小さな声で身体ごと泣いている。
「綾乃、心配かけたな」
突然、綾乃は立ち上がると、慎之介の胸にしがみついた。
小太郎の手前があるから、離そうとすると慎之介の胸を両手で叩く。顔は涙でくしゃくしゃである。
僅か半日で、こんなにもやつれるものか、慎之介は、綾乃がせつなくてせつなくて、胸が張り裂けそうになった。
つづく
45.朝陽におむすび
慎之介は綾乃を抱きしめた。華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。
「すまない、心配かけた・・・・・」
暫くそのまま抱きしめていた。
「綾乃、話がある。上がって話そう」
「これを神棚に上げてくれ」
脇差を両手で捧げるように渡す。
綾乃はいつもの脇差とは違うので、ふと見ると、大小腰に差してある。三本差してあったのだ。慎之介はそのまま、仏前の前に行き、手を合わせる。綾乃は神棚に供えて手を合わす。そして、振り返り、
「お茶を用意して参ります」
「いや、後で良い。座ってくれ」
「小太郎も座れ」
小太郎は綾乃の横にちょこんと座る。
「心配かけたが、父の仇は討てた」
「おめでとうございます」
綾乃は、改めてお祝いを言う。
「武士を辞めるつもりだ。これから、この江戸で、三人で仲良く暮らして行こう」
「あのう・・・」
「どうした?綾乃」
綾乃はうつむいたたまま、
「もう一人、ここにおります」
お腹を両手でそっと押さえる。
「なに!でかしたぞ!」
慎之介は、思わず立ち上がり綾乃のお腹に耳を当てる。
「まだ、早うございます」
「男の子か?女の子か」
「それもわかりません」
「小太郎!兄弟が出来るぞ、お兄ちゃんになるんだぞ!」
「おいら、お兄ちゃんになるの?どうして?」
「母上のお腹に、弟か妹がいるんだよ」
「えーっ!凄いな!おいらに兄弟が出来るんだ」
綾乃は嬉しそうに、
「お兄ちゃんらしくしようね」
「え、それどう言うこと?」
小太郎は少し不安げに聞く、
「おねしょですよ」
「あーっ、言っちゃだめだよ。父上は知らないのだから」
「小太郎、知ってるよ。夜中に布団を、ふーふーと息を吹いているところ、何度も見たよ」
「え、そんな!ひどいな!父上見てたのですか」
「夜中に、ごそごそ音がするから、ねずみかな?と襖を少し開けてね。すると、大きなネズミがふーふーと、布団に息を吹いている」
小太郎は、慌てて、慎之介の口を押える。
「大丈夫、母上も見たことあるから」
綾乃は可笑しそうに手を当てて笑う。小太郎も照れくさそうに、
「おいら、お兄ちゃんになるのだから、もうしないよ」
と自信なさそうに言う。そして、
「母上、お腹空いた!」
「あ、ごめんなさい。直ぐ支度しますね」
三人しかいないのに、賑やかだった。四人になったらどうなるのだろう。
慎之介が武士を辞めるには理由があった。
郡川藩に仕官すると、坂江藩と伝兵衛との約束を違えることになる。
一方、郡川藩においては、指南役を辞退することになるので、藩主宗近の好意を無にすることになる。しかし、それは違う。遺恨を持って勝った者を指南役にすると、御前試合が遺恨試合になり兼ねない。まして、今回の場合は、藩士に事の成行きが知れ渡っている。
宗近の心の内は慎之介へ称賛であったが、家老今田は藩政を考えたとき、慎之介の辞退を望んでいた。
従って、家老今田の文言は一直線ではなかった。試合直後の控室では、称賛にそれを汲んだ言い回しであった。控え室を出て行く時の、家老今田の顔にそれが見えた。
辞退した以上、坂江藩の指南は続けるわけにはいかない。郡川藩と坂江藩はあまりにも近過ぎた。
一番大事なことは、綾乃と小太郎のことであった。二人の幸せを考えたとき、武家社会の諸制度に縛られた不自由さ、耐えられるだろうか。綾乃は武家の娘であるが、それでも藩が違うので一からのスタートである。
江戸庶民の生活は、窮窮としていたが、生きる全ての自由を楽しんでいた。
次の朝、慎之介は留守居役中沢を訪ねた。中沢は大変残念がると同時に、何度も引き止めた。
慎之介が、藩主本多宗近と家老今田光義に宛てた手紙を、中沢に託すとやっと理解してくれた。
慎之介は帰りに褒美の金子を渡された。
中沢は家老今田から、これは帰藩の際の支度金だが、もしもの時は褒美として渡すようにと預かっていた。この時点で中沢には、家老の言う意味が分からなかった。今、その意味がわかった。百両の金子であった。
その足で、坂江藩に挨拶に行った。留守居役井上は、郡川藩の指南役を辞退したことを聞き、坂江藩の指南を諦めてくれたが、藩主池田忠輝が、どんなに嘆くかと残念がった。
続いて但馬屋を訪れた。伝兵衛が直ぐに出て来て、奥の間へ入った。
「おめでとうございます。お長い苦労でございましたな、何よりでございます」
涙ぐんで伝兵衛は言う。心から喜んでくれている。
「ありがとう。色々ご心配おかけいたしました。お陰様でで無事仇を討つことが出来ました」
「それで、ご仕官はどうなさいました?」
「先程、断って来ました。武士を辞めることにしました」
「はて、それはどうしてでございます?」
「郡川藩では指南役を依頼されましたが、お世話になった坂江藩のこともあります。両方は難しい」
「それは勿体ないことを・・・・・」
「いや、伝兵衛殿、私には今の自由の身が性に合っています。ましてや、呉服屋さんは気に入りました」
「本当ですか?それでは、これからもお助けいただけるのですか?」
「伝兵衛殿さえよろしければ、そう願いたいと思っております」
「ああー、ありがたい。よろしくお願いいたします」
伝兵衛は顔を上気させて喜んでいる。
「伝兵衛殿、今日から三日間は武士への区切りを付けたいと思っております。休ませていただいてよろしいでしょうか?」
「はい、十日でも一か月でもと言いたいところですが、一日でも早くお店に出ていただきたいと思います。お顔が見えないと心配なさるお客様が沢山いらっしゃいます」
自宅近くになると小太郎が駆け寄ってきた。
「父上、お帰りなさい。おいらずーっと待ってたんだよ」
「お帰りなさいませ」
綾乃も出て来た。
「ほら、団子買って来たよ。お茶でも飲もうか」
「わーい!そうだろうと思ってた」
「小太郎、団子を待っていたのか?」
「違わい!団子なんか嫌いだい」
「じゃ、小太郎は食べないんだな」
「嘘だよ、食べたいよー!」
夕飯は鯛の尾頭付きで、お祝いのご馳走だった。
「綾乃、全て了解してもらった。但馬屋さんではこれまで通りお世話になることにした」
「それでは、これからは、毎日家に居られるのですね」
「そうだ、綾乃が嫌と言っても居る」
「私はそんな事言いません!」
ぷんと拗ねて見せる。
「父上、おいら嬉しいな!絶対嫌じゃないからね」
小太郎はにやっと笑って勝ち誇っている。
「まっ」
と綾乃は小太郎を軽く睨む。慎之介は知らぬ振りをして、
「明日から、全てが新しく始まる。明日、朝陽を見に行こう」
突然の話に、小太郎はびっくりして、
「どこに行くの?」
「どこに行くのですか?」
綾乃も驚いて聞く。
「深川洲崎だ。明日は七つ半(午前五時)に起きるぞ。小太郎起きられるか?」
「あら、大変!用意をしなくてはいけませんね」
「急ですまない。よろしく頼む」
(江戸名所百景の一つで、歌川広重の木版画にもある。ここから江戸湾全景が見え、東から昇る朝陽が絶景であったと言われている)
「おいら、大丈夫だい!父上こそ寝坊したら、おいて行くよ。ねえ、母上」
「じゃ、今夜は早く寝ましょうね」
宵五つ半(午後九時)小太郎はもう寝たようだ。綾乃の方を見ると、暗くて見えないが、小さな寝息が聞こえる。
慎之介はそっと起き上がると綾乃の布団の中に入って行った。綾乃の甘い匂いがする。
「足が冷たいのです」
綾乃は起きていた。慎之介は綾乃の両足を自分の足の中に入れた。綾乃の口を吸った。それから間もなく、綾乃は慎之介の侵入を受け入れた。
明け六つを過ぎて辺りが少しずつ明るくなってきた。四半刻も歩いたので防波堤に着いたときは、お腹が空いて来た。
「母上お腹が空いた!おむすび食べたいよ!」
小太郎がおむすびをねだる。
「よし、ここに座ろう」
慎之介が真っ先に座る。両隣に綾乃と小太郎が座る。綾乃が竹の皮を広げて、二人に勧める。塩むすびだ。小太郎が真っ先に取る。
寒い中だが、おむすびはまだほのかに温かい。うまい!
三人がおむすびと沢庵を、ポリポリ音をさせながら、食べていると。朝陽が揚がって来た。揚がり始めると早い。
真っ白なおむすびに朝陽が当たり、黄金のように輝いている。三人の顔も輝いていた。
慎之介はあまりの神々しさに、おむすびを置いて立ち上がり、柏でを打った。それを見て、綾乃も小太郎も、真似して柏でを打った。
そして綾乃は、お腹を朝陽に向けて優しく優しく擦りながら、
「あなたも一緒よ」
と声をかけた。
朝陽に輝く家族四人の、愛に満ち希望に溢れる人生の始まりである。
終わり
☆長い間ありがとうございました。心から感謝致します。
次回は1週休みまして12月19日から新作時代小説を
スタート致します。どうぞ、ご期待下さい。